「最後まであきらめてはいけない」は綺麗事などではない

「最後まであきらめてはいけない」は綺麗事などではない


 
最後まであきらめてはいけない

 
私は、この言葉をどこか綺麗事のように捉えていた。

綺麗事とは「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」といった意味だ。(コトバンクより引用)

 
ほぼ負けが決定している。

もはや勝ち目がない。

そんなときに「最後まであきらめるな」という言葉が登場する。

 
しかし、その言葉が出てきた時点で、たいていの場合は負けてしまう。

奇跡的に逆転できる場合もあるが、その確率は極めて低い。

 
そう考えると「最後まであきらめていけない」は、綺麗事のように感じてしまう。

精神論。根性論。古臭い考え方。

 
だが一方で、私は矛盾した感情も持っている。

「途中であきらめる人」を見ると憤りを感じてしまうのだ。

これは私だけでなく、多くの人がそうではないだろうか。

例えば、サッカーの試合で10対0で負けているチームの選手が、全く走らなくなったり、ボールを追わなくなったりしたら、不快に感じるはずだ。

 
しかし、よくよく考えれば、勝てるはずのない勝負を最後まで頑張らせようとするのは酷な話だ。というより、本来であれば第三者が口を出すようなことではない。

 
おそらく、このような思考になってしまうのは、「最後まであきらめない」が日本の美徳だからだと思われる。

私も日本の教育に洗脳されてしまったせいか、「最後まであきらめない姿勢」は大好きだし、自分自身もそれを心がけている。

だが、他人にまで「最後まであきらめない姿勢」を望むのは少し違うような気がする。

 
このような感じで、私は「最後まであきらめない」という言葉に対してモヤモヤしていた。

 
だが、つい最近、自分の中で結論を出すことができた。

 
やはり、最後まであきらめてはいけないのだ。

今なら自信を持ってそう言える。

 
なぜなら、つい先日行われた「木村一基王位 VS 藤井聡太棋聖」の王位戦第3局で、そのように教わったからだ。

木村一基王位と藤井聡太棋聖

最近、藤井聡太棋聖の話題を耳にすることが多くなった。

破竹の勢いでプロ棋士たちを次々と倒していく。

新記録もどんどん樹立していく。

 
いやはや、本当にすごい。

 
私は熱狂的な将棋ファンというわけではないのだが、藤井棋聖の対局はやはり気になってしまう。

そして、つい先日行われた「木村王位 VS 藤井棋聖」の王位戦第3局を見ることにした。

 
ちなみに、木村王位は「初タイトル獲得の最年長記録保持者」であり、いわば、藤井棋聖とは真逆の存在といえる。

タイトルをかけた勝負に何度も敗れ続け、それでもあきらめずに挑戦し続け、そして、46歳で初めてタイトルを獲得した。

それゆえ、多くの将棋ファンがいる。

将棋解説もメチャメチャ分かりやすいうえに、面白いらしい。(私はまだ拝見したことがないので、機会があればぜひ見てみたい。)

 
それにかなりの人格者のようだ。

「藤井棋聖の初めての封じ手」をオークションに出して、その収益金を被災地などへのチャリティーに充てよう、と提案したのが木村王位だ。

 
つまり、木村王位と藤井棋聖の勝負は人気者同志の戦いだ。必然的に注目度が高くなる。

「AI」のおかげで、私でもハイレベルな戦いを理解できるようになった

私は将棋アマ三段の資格を持っているので、将棋はそこそこわかる。

だが、「木村王位 VS 藤井棋聖」のような超ハイレベルな戦いになると全くついていけない。

プロ棋士の思考は、広すぎるうえに、深すぎるので、私のような素人では全く理解が追い付かないのだ。

小学生が大学の授業を受けさせられている。そんなイメージだろうか。

 
そんな理由もあり、今まで将棋中継を見ることはなかった。

だが、今は、AIが盤面を解説してくれる。

それゆえ、素人の私でもなんとなくだが理解できる。

 
AIが教えてくれるのは次の2つだ。

 
1つ目は、盤面の優勢状況。
2つ目は、最善手など。

 
1つ目の「盤面の優勢状況」は、

木村王位60% 藤井棋聖40%

このような感じでパーセントで優勢状況を教えてくれる。

この例であれば、木村王位の方がやや有利ということだ。

 
 
2つ目の「最善手」は

第1案   0% ←最善手
第2案  -2%
第3案  -5%
第4案 -30%
第5案 -45%

 
こんな感じで、最善手から優れた順に5つの手を教えてくれる。

「0%」となっているのが最善手だ。

第2案は「-2%」となっているのだが、これは先ほどの盤面の優勢状況と関係している。

 
例えば、木村王位が「-2%」の手を打てば

「木村王位60% 藤井棋聖40%」
→「木村王位58% 藤井棋聖42%」

に変わる。

つまり、「2%分」木村王位が不利になり、藤井棋聖が有利になる。

 
このような感じでAIが、盤面の優勢状況や最善手を教えてくれるのだ。

しかも、最善手については解説者の方が「なぜこの手が良いのか」を説明してくれるので、私のような素人でも状況を理解できる。

木村王位が絶体絶命の状態から・・・

さてここからが本題だ。

私は、対局の途中(2日目の17時くらい)から見始めたのだが、そのときの盤面の状況は

木村王位30% 藤井棋聖70%

くらいで藤井棋聖がかなり優勢だった。

 
そして、手が進むにつれて木村王位は劣勢になっていった。

木村王位20% 藤井棋聖80%

くらいまでいっただろうか。

素人の私でも、木村王位がピンチであることはわかった。

 
ここまでくると藤井棋聖の勝ちはほぼ決定している。

 
だが、木村王位は「受け師」の異名を持っている。とにかく守りが強い。

解説者をうならせるような守りを続けていた。

 
盤面も終盤に近付き、「木村王位万事休すか」と思われた瞬間、なんと藤井棋聖が「悪手」を打ったのだ。

 
藤井棋聖は終盤になればなるほど強くなる。

終盤に悪手を打つことは滅多にない。

その藤井棋聖が悪手を打ったのだ。

 
ただ、このときは持ち時間も少なくなっており、攻め方のバリュエーションが多かったゆえのミスなのだろう。

ちなみに、私は偉そうに「悪手」などといっているが、盤面を見たところで私には「悪手」かどうかは判断できない。

AIが「悪手」と判断しているのだ。

 
 
そして、その手を境に一気に優勢状況が逆転した。

木村王位60% 藤井棋聖40%

くらいだっただろうか。

瀕死の状態から、一気に逆転したのである。

 
ただ、やはり藤井棋聖は強く、その後、木村王位は再逆転されてしまった。

勝者は藤井棋聖だった。

藤井棋聖にも勝ってもらいたかったし、木村王位にも勝ってもらいたかったので、少し複雑な気分だった。

「最後まであきらめてはいけないこと」を学んだ

だが、この対局で1つ学んだことがある。

それは

やはり、最後まであきらめてはいけない

ということだ。

 
将棋は終盤になってくるとAIによる候補手が次のようになってくる。

 
第1案   0%
第2案  -2%
第3案 -70%
第4案 -80%
第5案 -95%

 
つまり、「第1案」と「第2案」以外の手を打てば、一気に逆転されてしまうということだ。

そして、超一流の藤井棋聖ですら、そのような「悪手」を打つ可能性がある。

 
では、私のような一般人ならどうだろうか?

悪手を打ちまくるはずだ。

私レベルの実力では、第5案どころか第10案くらいの「大悪手」を打つ可能性さえある。

 
だが、将棋は「広く深い」。盤面を見渡せば、良さそうに見える手がゴロゴロと転がっている。

悪手を打つ方が普通なのだ。トップ棋士たちの方が異常なのだ。

 
そう考えたときに、「途中であきらめてしまう」というのは、やはりもったいないことではないだろうか?

相手は常に悪手を打つ可能性がある。

相手が人間である限り、ミスをする可能性がある。

 
そのチャンスを虎視眈々と狙っていれば、逆転できるかもしれない。

だが、あきらめてしまえば、その時点で終了だ。

そんなことを木村王位から学んだ。

 
「最後まであきらめてはいけない」

昔の人は経験的にそのことを知っていたのだろう。

だから、日本の美徳となった。

私も「AI」のおかげで、そのことを体感できた。

 
今なら自信を持って

「最後まであきらめてはいけない」

といえる。

巨人戦での采配が物議を醸す

この記事を書こうと思った数日前にタイムリーな事件が起きた。

大差で負けていた巨人が、野手を投手として起用したのだ。

どうせ勝てないのであれば、貴重な投手を使いたくないということだ。

メジャーリーグでは当たり前の采配なのだが、日本では暗黙の了解でタブーとなっている。

 
野手を投手として起用するということは、その試合をあきらめるということだ。

「最後まであきらめてはいけない」

という日本の美学に反する。

 
それゆえ、賛否両論の意見が出た。

反対意見の方が多いのかと思ったのだが、どうやら少なかったらしい。

メジャーリーグが日本にも浸透してきたせいだろう。

 
だが、巨人ファン、とくに、球場に足を運んでいるファンにとっては納得いかない采配だったのではないかと思われる。

やはり、ファンとしては「奇跡の逆転劇」を期待してしまうだろう。

 
 
ちなみに、私は賛成派だった。私は、イチロー元選手や大谷選手など、メジャーで活躍している日本人選手を心から応援している。朝起きてまずやることは、日本人選手の活躍をネットで見ることだ。

「大谷がホームランを打った!」
「マー君が勝った!」
「ダルビッシュが相手を無双した!」

そんなことで毎朝一喜一憂している。(ちょっと気持ち悪がられるかもしれないが・・・)

そんなわけで、大差がついた試合で野手が投手をやることは普通だと思っていたし、面白いとさえ思っていた。

 
だが、この記事を書いていて考え方が少し変わった。

やはり「最後まであきらめてはいけないのだ」。

少なくともお金を取っているプロが、あきらめる姿をファンに見せるのはダメだと思う。

とくに子供はがっかりするだろう。

 
この議論をすると「メジャーリーグならば普通だ」という言葉がすぐ出てくるのだが、メジャーリーグが全て正しいわけではない。

メジャーリーグに合わせておけばいいというのは、ある意味思考停止状態だ。

 
ただ、絶対に勝てない試合で、投手を酷使するのはたしかに合理的ではない。

だったら、コールド制にすればいいのだ。もしくは、白旗を揚げれるルールにすればいい。

やる気のない試合なんてやめてしまえばいい。

試合が早く終わることになるが、その分の時間でファンサービスでもやればいいのだ。例えば、ストラックアウト(狙った的にボールを投げるゲーム)など。監督や人気選手がやればきっと盛り上がる。

 
これにも賛否両論あると思うが、ファンにとってはやる気のない試合を見せられるよりはマシだろうし、選手達にとっても体を休ませることができるので嬉しいだろう。

そういった議論が出てこないのを少し残念に思う。(出ているのだと思われるが、あまり聞かない。)

 
 
ちなみに、この試合の翌日と翌々日、巨人は試合に負けた。

おそらくだが、試合をあきらめたことが少なからず影響したのではないと思われる。

あきらめるということは、緊張の糸が切れるということだ。

やはり、あきらめてはいけないのだ。(まあ、結果論なのだが・・・)

勝負が成立する時点で両者の差はそれほどない

あと、最後に1つ。

勝負が成立する時点で両者の差はそれほどない

ということをお伝えしておきたい。

 
なぜかといえば、差が大きすぎる場合には、ルールによって差を縮められてしまうからだ。

 
例えば、小学生とプロ野球選手がいっしょに野球をやることはない。

小学生は小学生リーグで、プロ野球選手はプロ野球リーグで野球をやる。

このようにルールによって、実力差が大きくならないように調整されている。

 
他にも、柔道であれば50キロの選手と70キロの選手が戦うことはない。

体重別に分けられる。

 
もう少し身近な例で言うと、学校の定期テストもそうだ。

とくに、高校の場合は、学力が同じくらいの人達で順位を争うことになる。

なぜなら、入試を経て入学しているからだ。

 
物凄く実力のある人は、もっと上の高校に進学するし、逆の場合は、その高校に入学できない。

つまり、ほぼ同レベルの人達が集まっている。

 
にもかかわらず、「自分の校内順位はこれくらい」と決めつけるのは得策ではない。

それほど差がないのだから、いくらでも上にいけるはずだ。

ただ、上位1~2%程度は、いわゆる「天才」がいる場合もあるので、その壁を乗り越えるのは少し難易度が高いかもしれない。

だが、逆に考えれば、上位3%程度であれば誰にでもチャンスがあるということだ。

つまり、1学年300人の学校ならば、誰でも校内順位10番以内を目指せるということだ。

 
このように言うと、おおげさに聞こえるかもしれないが、そんなことは決してない。

よくよく考えてみて欲しい。自分より物凄く実力が上の人は、自分と同じ集団にはいない。

ワンランク上の集団にいる。まれに、自分と同じ集団に紛れている可能性もあるが、それは1~2%に過ぎない。

 
もしも、自分の集団に天才が多くいるのであれば、それは自分自身も天才か、あるいは、それに近い存在ということだ。

 
この社会は、ルールなどによって、同程度の実力の人が集まる仕組みになっている。

プロ野球であれば、2軍の中で物凄く実力のある人は1軍に行くし、1軍の中で物凄く実力のある人はメジャーリーグにいく。

逆に、2軍の中で実力のない人は解雇されてしまうし、1軍の中で実力のない人は2軍に落とされる。

このように、同程度の人が集められるようになっているのだ。

 
つまり、勝負が成立する時点で両者の差はそれほどないということだ。

つまり、どんな相手だろうと必ず勝つチャンスがあるということだ。

つまり、どんな相手だろうと最後まであきらめてはいけないということだ。

まとめ

最後まであきらめてはいけない

将棋の王位戦第3局を見て、自信を持ってそう思えるようになった。

 
この言葉が出てくるときは、おそらく、自分や応援している人が不利なときだろう。

そのときは、ぜひこの言葉を思い出して頂きたい。

この言葉は、決して綺麗事などではない。

 


関連記事
「自由に生きる」ために実践すべき2つのこと