お金を信じていいのだろうか?お金よりもっと大切なこと

お金を信じていいのだろうか?お金よりもっと大切なこと


 
私達の生活に欠かせない「お金」。

 
もはや人間は「お金」に支配されているのではないか。「お金」にはそのくらい圧倒的な存在感がある。

 
でも、よくよく考えると「お金」って一体何なんだろう?
 

紙切れ3,000枚で家が買える?

例えば、1万円札。

1万円札なんて、ただの1枚の紙切れ。でも、この「1枚の紙切れ」でいろんなものが買えてしまう。

3,000枚も集めたら「家」が買えてしまう・・・

 
どう考えても「紙切れ3,000枚」と「家1軒」が等価とは思えない。

 
異常に思えるけど、これが現代の正常。

いまいち納得できない。

もし、1万円札を1万枚持っていたら

もし、1万円札を1万枚持っていたらどんな気持ちなんだろうか?

 
1万円札が1万枚、つまり1億円。

それが目の前に積まれているとする。これが自分のもの。

 
果たして、この状況を喜んでいいのだろうか?

「1億円をもらえる」

このように聞くと「やったぜ!」と多くの人は喜ぶはず。(当然、私も喜びます。)

 
しかし、

「紙切れを1万枚あげる」

と言われれば正直微妙。

 
でも、1万円札は紙切れにすぎない。それは事実。

 
もし、宇宙人が地球にやってきたら、

「こんな紙切れなんて要らない。トイレットペーパーの代わりにもならないし。でも、地球観光記念に1枚もらっておくか。」

きっとこんな感じ。

 
私達にとっては大切なお金も、見方を変えればただの紙切れ。

 
火事などで燃えてしまえば一瞬でなくなってしまう。

 
お金って、私達が思っているほど価値のあるものなんだろうか?

お金の価値は時間とともに変動する

「今日は1ドル=100円」
「40年前は1ドル=200円」

ニュースでこんな話題を耳にする。

 
これは、日本円の価値が上がったり(円高)、下がったり(円安)しているということ。

 
余談になるが、円高と円安はどっちがどっちだろう?いつもちょっと迷う。

 
ちなみに上の例で考えると、

1ドル=100円 → 円高
1ドル=200円 → 円安

 
100円出すだけで、1ドル札に交換してもらえる。
→円の価値が「高」い

200円も出さないと、1ドル札に交換してもらえない。
→円の価値が「安」い

 
ややこしい話だけど意外と重要。現代の日本経済は輸入や輸出に頼っている。

 
「円高」になると、輸入価格が下がって、輸出価格が上がる。
「円安」になると、輸入価格が上がって、輸出価格が下がる。

 
頭が混乱するけど、「円高」や「円安」は私達の生活にかなりの影響力を持っている。

 

にもかかわらず、円の価値が毎日コロコロ変わる。円高になったり、円安になったり・・・

 
しかも、その原因は「日本の首相の一言」や「アメリカ大統領の一言」。たったそれだけだったりする。

 
正直、お金の価値は不安定すぎる。

もし、ハイパーインフレになったら

極端な例だが、もし、「1ドル=1億円」になってしまった場合はどうだろうか?

このようにお金が価値が極端に下がった状態をハイパーインフレなんて呼ぶ。

 
アメリカに旅行に行った場合、1億円支払ってもペットボトル1本くらいしか買えない。

さきほど1億円を「1万枚の紙切れ」と表現したが、まさにその状態。

 
冗談みたいな話だが、過去に似たような現象が発生したことがある。ドイツやロシア、近年ではベネズエラでハイパーインフレが起こった。

 
もちろん、なかなか起こることではないのだが、このようなことを考えると、

「お金って、信頼して良いものなのか?」

と疑いたくなる。

「お金」も「仮想通貨」も同じ?

お金はゆらゆらと揺れ動くもの。実際には存在しない架空のもの。そんなイメージを受ける。

「仮想通貨」と初めて聞いたときは「何じゃそりゃ?」と思ったけど、本質的には「お金」も「仮想通貨」も変わらないような気がする。

 
「その架空のもの」に縛られて生きていく。違和感を感じるのは私だけだろうか?

学校教育で「お金の授業」がないという不自然さ

学校で「お金の授業」を受けたことがあるだろうか?

お金の使い方、お金の稼ぎ方、資金運用の仕方など。

 
「お金」と「私達の生活」は切っても切り離せないもの。

 
それなのに「お金」の授業がない。「英語」の授業はなぜかある。日本人なのに。

 
「お金の知識」と「英語の知識」

 
日本に住んでいる日本人にとって、将来どちらが役に立つかは一目瞭然。「お金の授業」がないのは不自然すぎる。

「お金」の話はタブー?

というより、なんとなく「お金」という言葉自体がタブー視されている感がある。

「お金のことを話すのは下品」

そんな風潮があるような気がする。

 
おそらく、いくら稼いでいるか(年収がいくらか)で人の優劣を判断してしまう嫌いがあるからだと思われる。実際、多くの女性は結婚相手の年収を気にする。

でも、年収を聞くのは相手に気を遣うし、聞かれる方も言いたくないことが多い。

 
だから、「お金の授業」がないのだろうか?

 
それとも、教育関係者は公務員が多いので、お金に無頓着だけなんだろうか?

おそらく、お金に困ることはないだろうし。「パンがなければケーキを食べればいいじゃないか」って感覚なんだろうか?

 
それとも、お金が架空的なものであることに気付かせないため?

 
真相はよくわからないが、「お金の授業」がないことはいまいち納得できない。

お金を心の拠り所にしても良いことはない

年を取るにつれてどんどん「お金」に心を奪われていく。

 
子供が生まれれば、生活費が増える。

子供が学校に行き出すと教育費がかかる。

大学に行くときには、莫大なお金がかかる。

 
お金。お金。お金。

 
そんなことをしているうちに「お金の亡者」になってしまう気がする。

 
おそらく、お金を心の拠り所にしても良いことはない。

じゃあ、何を心の拠り所にすればいいんだろう?

もし、この世からお金がなくなったら・・・

「もし、この世からお金がなくなったらどうなるか?」
 

これについて考察すれば、本当に大切なものが見つかるような気がする。

お金が存在しない世界で、リンゴをもらうには

例えば、お金が存在しない世界でリンゴをもらう場合。

どんな方法があるだろう?

物々交換?

まず考えられるのは「物々交換」。

米などを持っていれば、リンゴと交換してもらえるかもしれない。

ただ、相手が米を腐るほど保有していたら、物々交換は成立しない。

肉体労働?

その場合、次に考えられるのは「肉体労働」。

肩を揉む、掃除をするなどでもリンゴを譲ってもらえるかもしれない。

ただ、相手が健康な人、お店がきれい、そんな場合はきっと取引が成立しない。

相手の感情に訴える?

あと考えられるのは、「相手の感情に訴えること」くらいだろうか。

「子供がお腹を空かしてるんだ」と泣きながら訴えるなど。

あるいは、歌や手品などの芸があれば、相手の心を揺さぶることができるかもしれない。

ただ、この方法も上手くいくとは限らない。

「お金」の偉大さを再認識

そういう意味では、やっぱり「お金」は偉大。お金さえ払えば、ほぼ確実にリンゴを売ってもらえる。

 
「お金がなくなったらどうなるか」を考えようと思ったのに、最終的に辿り着いた答えは「お金はやっぱり偉大」。本末転倒な結論に。

 
ただ、この考察を経て、もう1つ分かったことがある。

それは「相手が望むものを提供できれば、リンゴを手に入れることができる」ということ。

望むものを提供する。「お金」よりも重要な気がする。

例えば、砂漠のど真ん中にいた場合

例えば、砂漠のど真ん中にいて喉がカラカラ。水を飲まなければ死んでしまうかもしれない。そんな状況の場合。

 
神さまが目の前に現れて

 
「『1億円』と『』のどちらかをあげるので選びなさい」

 
と言われたら、おそらく多くの人は「水」を選ぶはず。(「1億円」を選ぶ人もいそうですが・・・)

 
このような状況では、1億円は紙切れ同然の価値しかない。

 
つまり、本質的には「お金」よりも「望むもの(水)を手に入れること」の方が重要ということ。

「お金」よりも「相手が望むものを提供できるスキル」の方が重要

社会人になると「給料の良い会社に勤めたい」「お金を稼ぎたい」、そんな気持ちが強くなっていく気がする。

しかし、「お金」は水物。ここに固執してしまうと将来痛い目に合う可能性がある。

 
「お金」よりも「相手が望むものを提供できるスキル」の方が本質的には重要ではないだろうか?

 
例えば、「メチャメチャおいしい料理を作れる料理人」なんて無敵。

そこら中から引っ張りだこ。おそらく、体一つ持っていけば衣食住を揃えてもらえる。一文無しでも生きていける。もちろん、お金を稼ごうと思えば稼げる。

 
相手が望むものを提供できる人は、世界がインフレになっても関係ない。

逆に、そのようなスキルを持っていなければ、1億円持っていても手元に紙切れが1万枚残るだけ。

 
「お金」の信者になっても、きっといい未来は訪れない。

 
相手が望むものを提供できるスキルを磨く。このことによって、より多くの「お金」が意図せず舞い込んでくるようになる。そんな気がする。