「ロジハラ」に違和感を覚えるのはなぜ?

「ロジハラ」に違和感を覚えるのはなぜ?

 
最近、SNSで「ロジハラ」が話題になっているようです。

 
ロジハラとは「ロジカルハラスメント」の略。

正論ばかりを突きつけて相手を追い詰めるハラスメント」の意味らしいです。

 
「なんだそりゃ?」と思いつつも、たしかにそんな人がいますよね・・・。

 
ただ、テレビ番組で「ロジハラ」に関する話題が取り上げられたときに、混乱が起こったそうです。「意味がよくわからない」と。

 
私自身も、ロジハラについて考えてみたんですが、たしかに何か違和感を覚えてしまいます。

 
今回の記事では、「ロジハラの何がおかしいのか?」について考察してみたいと思います。

あと、

「ロジハラを引き起こさないためにはどうしたらいいか?」
「ロジハラに巻き込まれないためにはどうしたらいいか?」

についても考察します。

誰にでも通じる正論なんて存在しない

「ロジハラ」をネットで調べると、まず最初に出てくるのが「正論」という言葉。

この正論が、話をややこしくしているように思います。

 
なぜなら、誰にでも通じる正論なんて存在しないからです。

「人を殺めてはいけない」は正論?

例えば、「人を殺めてはいけない」。

これはなんとなく正論のような気がします。

 
でも、日本には「死刑制度」がありますよね。

日本国民の大多数が「極悪人ならば殺めてもいい」と認めているわけです。

つまり、日本国内においては「人を殺めてはいけない」は正論ではありません。(もちろん、私個人的には正論になって欲しいと願っています。)

「自ら命を絶ってはいけない」は正論?

他にも例えば、「自ら命を絶ってはいけない」。

これもなんとなく正論のように思えます。

 
ですが、そのような状態に陥ってしまう人が、一定の割合で存在します。

かなり追い詰められているときなど、極めて異常事態ではあるのですが、当事者達は、その瞬間においては「それが正しいこと」だと考えています。

彼らにとって「自ら命を絶ってはいけない」は正論ではありません。

 
というより、私個人的には正論にしてはいけないと考えています。もちろん、そのような事態にするのは絶対ダメだと思っています。

が、万が一そのような状況になってしまった場合に、残された家族達は、必要以上に苦しめられることになります。(世間の視線などに)

 
「絶対に自ら命を絶ってはいけない。でも、人間として生きている限りは誰にでもあり得ることだ。」

そのような認識が重要なのではないかと、個人的には考えています。

 
このように命に関わることでさえ、正論が存在しないのに、その他のことで正論なんてものが存在するわけがありません。

「正論」が成り立つのは・・・

「正論」が成り立つのは、「その正論を正論だと思っている人達の中だけ」です。

例えば、キリスト教徒はキリスト教が「正」になるし、仏教徒は仏教が「正」になります。

お互いの正論が完全に一致することは、まずありません。

 
つまり、思想が違うだけで「正論」は「誤論」へ変わってしまうわけです。

ハラスメントと感じる時点で、それは正論ではない

もし、自分も相手も「正論」と感じるのであれば、お互いが揉めることはありません。

ですが、「ロジカルハラスメント」の場合は、少なくとも相手側は不快に感じています。

 
つまり、ハラスメントする側は「正論」と思っていても、される側は「正論」とは思っていないわけです。

これは本当の意味での「正論」ではありません。

 
にもかかわらず、「ロジカルハラスメント」の意味は、「『正論』ばかりを突きつけて相手を追い詰めるハラスメント」となっています。

「正論」ではないのに「正論」という言葉を使ってしまっています。

これが混乱を引き起こす要因の1つだと思われます。

 
ロジカルハラスメントの意味を

自分が正しいと思い込んでいることを、相手にも強制し、追い詰めるハラスメント

にすれば、理解しやすいのではないかと思います。(少なくとも私はそう感じます。)

ロジカルの和訳は「論理的な」

そもそも、ロジカルの和訳は「論理的な」です。「正論」ではありません。

これも混乱を引き起こす要因の1つのように思います。

 
おそらくですが、「ロジカルハラスメント」という言葉を最初に考えた人は「論理的に相手を追い詰めるハラスメント」という意味で使っていたのではないかと推察されます。

 
でも、

論理的に相手を追い詰めるハラスメント」

よりも

正論ばかりを突きつけて相手を追い詰めるハラスメント」

の方が、なんとなくインパクトが強い気がします。そんな理由で「論理的」から「正論」に変わっていったのではないかと推察されます。

相手が納得できなければ、それは論理的ではない

もし、ロジカルを「論理的な」という意味で捉えたとしても、相手がハラスメントと感じるようであれば、それは論理的ではありません。

なぜなら、相手を納得させられない論理など、論理とはいえないからです。

 
論理を使う目的は、相手を納得させること。

その目的を達成できていないわけです。

 
どんなに自分が「論理的」だと思っていても、相手に伝わらない論理は「非論理的」です。

 
そう考えると、ロジカルハラスメントは「論理的に(つまり、メチャクチャな理由で)人を追い込んでいくハラスメント」という意味が相応しいかもしれません。

これは、さきほどの「正論」のときと似てますね。

「正論大好き人間」「論理大好き人間」が多い

「正論でないのに、正論という言葉を使っている」
「論理的でないのに、論理的という言葉を使っている」

 
これらが「ロジハラ」を理解しにくくしている原因だと思われます。

 
ですが、「正論大好き人間」「論理大好き人間」が多いことが、さらなる混乱を引き起こしているように思います。

 
これらの人達は「ロジハラ」に対して猛反発するはずです。

「正論で攻めて何が悪いんだ!」
「論理的に攻めて何が悪いんだ!」

と。

論理が、今の社会の一部を支えている

論理的に攻める人は、悲しいことに嫌われてしまう傾向にあります。

が、論理的に攻めることは決して悪いことではありません。

というより、論理が、今の社会の一部を支えています。

例えば、裁判

例えば、裁判。

被告が「無罪」を主張すれば、原告は、被告を「有罪」にするために、「論理的」に相手を追い詰めていきます。

この構図は、まさに「ロジックハラスメント」と同じです。

 
裁判所でこの方法が採用されているということは、ある意味、「ロジハラ」は、今の日本社会では容認されているということです。もし、これを否定するのであれば裁判制度そのものを否定しなくてはいけません。

論理が好きな人もいれば、嫌いな人もいる

このように論理は社会を支える一部です。

しかし、論理が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。

 
例えば、学者やサラリーマンは、論理が好き、というより、論理的でないとなかなか仕事が上手く進みません。

一方、子供は、論理が嫌い、というより、堅苦しい大人の論理は通用しません。子供に限らず、論理的に考えることが苦手、嫌いという人達に対しても同じ。

 
つまり、「ロジハラ」は、賛成派と反対派の意見が真っ二つに割れてしまう、なんとも扱いの難しい言葉と言えそうです。

「なんちゃってロジックハラスメント」とすれば・・・

ですが、先述のように「ロジハラ」は、

論理的ではないのに、論理的という言葉を使っている

という矛盾を含んでいます。矛盾している言葉を、真剣に議論したら混乱が起こるのは当たり前。

 
もし、「ロジハラ」を

非論理的に(つまり、メチャクチャな理由で)相手を追い詰めるハラスメント

と定義しなおせば、論理が好きな人、嫌いな人、両方が

「それはダメだろ!」

と思うはず。

 
つまり、「ロジックハラスメント」を

なんちゃってロジックハラスメント
ノンロジックハラスメント

などの言葉に変えれば、もう少し混乱が収まるように思います。

略して「なロハラ」「ノロハラ」でしょうか。我ながら微妙なネーミングですね・・・。

「ロジハラ」は単なるネタ?

でも、よくよく考えてみると

ロジハラは単なるネタなんではないか?

とも思うようになりました。

 
論理的に考えれる人は「ロジハラはなんかおかしいぞ」ということに気付くはず。実際、テレビ番組でも混乱が起こっていました。

論理的に考えるのが苦手な人は、そもそも「それ、ロジハラですよ!」なんて指摘することはないと思います。

 
つまり、「ロジハラ」という言葉が出てくる機会はないはず。実際、つい最近までそんな言葉は存在しませんでした。

 
一方、「正論っぽいことを言って相手を追い詰める人」は、ずっと昔から存在しています。

これを表現する際に

「ロジハラという言葉を使えば面白いんじゃないか?」

のような感じで、ネタ的に造られた言葉ではないかと、私個人的には推察しています。

 
そう思うと、真剣に考えるだけ損ですね・・・。

おそらく、流行るのは一時的なもので、定着することはないように思います。

 
でも、「ロジハラ」について考えていくうちに色んなことに気付きました。

ここからはそれらを紹介していきます。

「ロジハラ」と「裁判」の相違点

「論理的に相手を追い詰めていく」

この点においては「ロジハラ」も「裁判」も同じです。

ですが、決定的に違う部分があります。

 
それは「裁判官がいるかいないか」。

 
裁判の場合、原告と被告がそれぞれ主張をしますが、最終的に結論を出すのは「裁判官」です。

基本的に、裁判官は公平な立場です。

 
ですが、「ロジハラ」が起こる現場では「裁判官」がいません。例えば、上司と部下の2名だけなど。

つまり、上司が「裁判官」と「原告」を兼任します。

「被告」である部下はどうやっても勝ち目がありません。

このような状況下では、論理など全く役に立ちません。

パワハラやイジメと同じ。

 
そう考えると、「ロジハラ」ではなく、「パワハラ」という言葉の方が、スッキリする気がします。

正論や論理が通用しない相手がいる

この記事の最初の方に述べたように、全ての人に通じる「正論」なんてものは存在しません。

同じく、全ての人を納得させるような「論理」も存在しません。

 
「人を動かす 著者:D・カーネギー」

の一節に興味深いことが書かれています。

 

 

“およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えている者は、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまで自分の行為を正しいと信じている。”

 

つまり、

多くの悪人は、自分自身のことを悪人だとは思ってはおらず、善良な人間だと思っている。

ということです。

 
これはなんとなく理解できますよね。

例えば、何かと話題になる「あおり運転」。

 
あおり運転をしている人が、「あおり運転は悪いことだ!」なんて思っているでしょうか?

きっと思っていませんよね。

思っていればそんなことはしません。

 
あっちが先にケンカを売ってきたんだから、あっちが悪い。自分は悪くない。

そのように思っていることは容易に想像がつきます。

 
他にも、裁判で、明らかに罪を犯しているのに「無罪だ!」と主張する人もいます。

 
これらの人に正論を言ったり、論理を使ってもムダです。

相手が「自分が正しい」と思っている以上、こちらが何を言っても通じません。

 
「ロジハラ」が起こるときは、この状態になっている可能性があります。時間のムダ。労力のムダ。

責める側、責められる側、お互いにストレスでしかありません。

「ロジハラ」を引き起こさないためには

「ロジハラ」という言葉自体が、矛盾を含んでいるので、本来であれば使うべき言葉ではないように思います。

ですが、現実問題として「ロジハラ」という言葉が流行ってしまったので、何かしらは対応せざるを得ません。(おそらく、一過性のものだとは思いますが・・・)

 
この「ロジハラ」が起こる原因は、責める側にあります。

正論ではないのに正論だと思ってしまっている。論理力が足りないなど。

実際は、責められる側に原因がある場合もありますが、先述のように、相手が「自分は正しい」と考えている場合は、相手のせいにしても仕方ありません。暖簾に腕押し状態です。

 
少し補足すると、先ほどは「悪人は自分のことを正しいと思っている」と説明しましたが、実際は、悪人善人関係なく、誰もが少なからず「自分が正しい」と考えています。

そのため、「相手を叱責する」という行為は、たいていの場合上手くいきません。

 
だったら、「こっちの説明の仕方が悪い」と腹をくくり、他の方法を考えた方が得策です。

相手の考え方に合わせる

相手には相手の言い分があります。

相手の正論、相手の論理を理解し、そこに自分を合わせることができれば、「まともな会話」ができるようになります。

相手も自分の言い分を聞いてくれるようになります。

 
つまり、相手の考え方に合わせてあげる。

そんな方法が実現できれば、「ロジハラ」になることはありません。

そのためには、とにかく相手の話を聞いてあげることが大切です。

相手の考え方を自分に合わせる

とはいうものの、「相手の考えを自分に合わせること」が必要な場合もあります。

自分」というより「世間一般なルール」や「所属している集団のルール」に合わせる、の方が正しいかもしれません。

 
例えば、「人のものを勝手に奪ってはいけない」は、世間一般的なルールです。

が、子供の世界では、このようなことがしばしば起こってしまいます。ドラえもんのジャイアンが良い例です。

 
子供のうちは叱られるくらいで済むかもしれませんが、大人になれば警察の御用になってしまう可能性があります。

このようなルールは、相手にハラスメントと思われようが徹底的に教え込む必要があります。

 
仮に相手が「ハラスメントだ!」と訴えてきたとしても、世間一般的なルールであれば、ほぼ間違いなく自分が勝つことができます。

 
微妙なのは、「自分ルール」を相手に押し付けている場合です。人は少なからず「自分ルール」を持っています。

例えば、少し昔の人であれば、「何事も気合と根性でなんとかなる!」など。

自分自身は心の底からそう思っていても、現代の若い人達に対してそれが通じることはまずありません。

 
相手の考え方を自分に合わせる方法」を採用する場合には、一旦立ち止まり、自分の考えが本当に正しいのかを検討する必要があります。

自信がないのであれば、相手の考えに合わせつつ、相手を説得していく方法(先述の方法)が、無難なように思います。

どうしても馬が合わない場合は・・・

ただ、人と人との関係なので、どうしても馬が合わない場合もあります。水と油の関係。

 
そんな場合は、距離を置くことをおススメします。

距離を置けない場合は、裁判官のような公平な第三者に介入してもらう、などの対応が必要です。

逆に、「ロジハラ」に巻き込まれないようにするには

ここまでは、「ロジハラ」の加害者になってしまう場合の話でした。

ですが、逆に、「ロジハラ」の被害者になってしまう場合もあります。

 
「ロジハラ」に巻き込まれないようにするには、基本的には先ほどと同じことをしていく必要があります。

  1. 相手の考えに自分が合わせる
  2. 相手の考えを自分に合わせる
  3. お互いに距離を置く
  4. 公平な第三者に介入してもらう

など。

ただ、2番目の「相手の考えを自分に合わせる」のは、ちょっと難易度が高いかもしれません。

ハラスメントの加害者は、自分より上位者のことが多いからです。相手が勝手に上位者だと思っている場合もあります。

どちらかが相手の考えに合わせることができれば・・・

どちらでもいいので、どちらかが相手の考えに合わせることができれば、ハラスメントなんて起こらないのに・・・。

と思いつつも、やはりそれは難しいですよね。

そんなことができれば、世の中から戦争がなくなっているはずです。

 
でも、何千年も戦争は繰り返されています。人類誕生のときからずっとかもしれません。

そう考えると、これからも「○○ハラスメント」なんて言葉が生まれ続けていくんでしょうね。

なんとも虚しい気持ちになってしまいました・・・。

まとめ

「ロジハラ」について考えたら、思いのほか色んなことを考えさせられました。

今回の考察で、わかったことをまとめます。

 
「ロジハラ」という言葉に違和感を感じるのは、その言葉自体に矛盾が含まれているから。

「正論」「論理的」という言葉を使っているのにもかかわらず、実際は「正論」でもないし、「論理的」でもない。そもそも、「ロジカル」の和訳は「正論」ではない。

 
「論理的に相手を追い詰めること」を「是」とする人もいれば、「非」とする人もいる。おそらく、この決着は一生つかない。これも混乱を引き起こす原因の1つ。

このような微妙な言葉は、定着することなく消え去っていくと思われる。本来であれば、使用すべき言葉ではないと考える。(ネタならアリ。)

 
個人的には、「ロジハラ」ではなく、「なんちゃってロジカルハラスメント(なロハラ)」「ノンロジカルハラスメント(ノロハラ)」のような表現の方が、納得する人が増えるのではないかと考える。(ネーミングは微妙なので改善の余地あり。)

 
ロジハラを引き起こさない、巻き込まれないようにするためには

  1. 相手の考えに自分が合わせる
  2. 相手の考えを自分に合わせる
  3. お互いに距離を置く
  4. 公平な第三者に介入してもらう

などの対応が必要。

 
 
こんなところでしょうか。

ただ、このように書いても私の考えに同意して頂ける人もいれば、全く同意して頂けない人もいると思います。

私の記事は、ある人にとっては論理的。ある人にとっては非論理的。

 
人に自分の考えを伝えるのって本当に難しいですね・・・。

 
「ロジハラ」のおかげで、そのことを再認識できました。

 
今回の記事はここまでです。お読み頂きありがとうございました。

 


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